雨上がりの日曜の朝
2007年 08月 05日
朝方に降った雨が上がった今朝。
鳥たちのさえずりのかしましさと、むっとするこの蒸し暑さが、夏の朝らしい。
今朝も、早朝から散歩をしてきた。
隣りの地区は、昨晩、夏祭りで盛り上がっていたにも関わらず、早朝から地区清掃を行っていた。
シニア世代を中心に、日中の倍以上の人通りがある朝の時間は、一日の中で団地が一番活気づく時間帯かもしれない。
実は、このブログを書くのは今朝2度目。
サーバーの調子が悪く、一稿目はクラッシュしてしまった。
ガッカリ。
久々に爽やかでいい感じの文章だったのに。。。。
気を取り直して書いているけれども、同じ文章は二度と書けない。
いやこういうところがド素人さんなのだ、私ったら。
ということで、やや投げやりな口調の殴り書きの文章ですが、よろしければどうぞ。
走ったり、歩いたりすることは、こころへの影響が何かしらある行為だと常々感じている。
「こころ」というよりは「脳」なのだろうな、本当のところは。
以下、私の場合のお話。
走ったり、歩いたりしている時は、特に何か考えているわけではない。ただただ走ったり、もくもくと歩いたりしているだけ。
にも関わらず、走ったり・歩いたりという行為を重ねていくうちに、不思議なことに悩みや悲しみ、苦しみが、波打ち際の砂の城のように、静かにゆっくりと変化したり崩れ去っていくのを、漠然とした感覚で経験する。
なので、言葉にできない、もしくは、言葉にする機会が得られない時、私は走ることにしている。これ、たぶん、私なりのセルフケアなのだと思う。
走ることで、意識していない、そう「無意識」の領域の奥の奥の方で、癒しなのか何なのかわからないが、静かにゆっくりと動いていくものがあるようだ。
これを、何とよんだらいいのだろうか。
暴力被害女性の回復に、何かしら身体を使ったワークを取り入れたいと思うのは、こういうとても個人的な経験があるから。でも、それが一体どのような形なのかが、まだわからない。
その女性の回復の段階によっては、ヨガなどの瞑想タイプのものはかえってマイナスになることもあるように思うし。。。。
私は、たまたま走ったり・歩いたり(自然の中であって、ジム内ではない)することが、意識の領域を越えたところにいいあんばいに作用することがわかっているのだが、あくまでもごくごく個人的な経験でしかない。
昨日、走っていたら、蛇に会った。
びっくりしたけれど、たぶん蛇の方がえらく驚いたに違いない。
無駄のない身のこなしで、あっという間に姿を消した。
私は、びっくりして一旦元来た道を引き返したけれども、せっかく蛇が道を譲ってくれたのだからと再びその道まで戻り、再び走り出した。
私の住む団地は、仙台市内とは思えないような深い森や大きな沼がいくつかある。
そこには、蛇はもちろんのこと、小動物や昆虫が数え切れない種類生息している。
蛇に会った後、足元に注意しながら走っていくと、キリギリス、カマキリ、毛虫、ミミズ、コガネムシ、カミキリムシ、カエル、蛾・・・・etc。たくさんの生き物に出会った。
気がつけば、その一匹一匹に声をかけていた。
それから、行き交う見ず知らずの人たちとも、自然に挨拶をしている自分がいた。
知らないうちに、こころの澱が浄化されていったのだろうか。
からだを動かし、声を出すこと(しかも相手があって)は、こころの安定に大きく貢献してくれる。
帰り足、塩沼亮潤さんの千日回峰行の話を思い出した。
塩沼さんは、戦後3人目の千日回峰行を達成したという仏教界の偉業の方。
その塩沼さんが、行の最中、出会うミミズを一匹一匹助けてやったという話を思い出した。
団地の森の深さや出会った生き物たちが、記憶を引き出したのだろう。
どんな時にも、自分でも思いがけない時に何かしらプレゼントをしてくれる「こころ」や「脳」の不思議やたくましさには、いつもおもしろ味を感じてしまう。
さらに、塩沼さんのこんな言葉も思い出した。
「『今』がよければ、『昔』もすべてよくなる。『今』が悪ければ、『昔』もすべて悪くなってしまう」
そして、その言葉の後には「『今』を一番しあわせに思うこと」という言葉が続く。
表面的には、とてもじゃないけれども手放しで受け入れられる言葉ではない。
もし、今、暴力被害や犯罪被害に遭っていたら、そうは思えないだろうとついつい考えてしまうからだ。
でも、そこから何らかの形ででも生き延びることができたら、この言葉は回復の大きな支えになるだろう。
暴力を肯定するのではなく、劣悪な状況下で生き延びた自分を認めることが、新しい道を切りひらく大きな力になる。
『今』生き延びてここにいることをしあわせに思うこと(感じること)が、過去の自分を否定せずにすむことに繋がるとすれば、どんな最低・最悪な経験を持った人でも、回復の道がきっとあるのではないだろうか。
人は多かれ少なかれ誰しもが人生をサバイヴしていると思う。
そういう意味で、人生自体が「行」とも言えるのかもしれない。
ブッティストではないので、勘違いがあるかもしれないけれども。。。。
だからこそ、塩沼さんの言葉は、私たちの誰しもが持つこころの奥にある自分でも認知できていないような領域に、響くのかもしれない。
さて、今日は日曜日。
ゆっくりと朝ご飯を食べよう♪
鳥たちのさえずりのかしましさと、むっとするこの蒸し暑さが、夏の朝らしい。
今朝も、早朝から散歩をしてきた。
隣りの地区は、昨晩、夏祭りで盛り上がっていたにも関わらず、早朝から地区清掃を行っていた。
シニア世代を中心に、日中の倍以上の人通りがある朝の時間は、一日の中で団地が一番活気づく時間帯かもしれない。
実は、このブログを書くのは今朝2度目。
サーバーの調子が悪く、一稿目はクラッシュしてしまった。
ガッカリ。
久々に爽やかでいい感じの文章だったのに。。。。
気を取り直して書いているけれども、同じ文章は二度と書けない。
いやこういうところがド素人さんなのだ、私ったら。
ということで、やや投げやりな口調の殴り書きの文章ですが、よろしければどうぞ。
走ったり、歩いたりすることは、こころへの影響が何かしらある行為だと常々感じている。
「こころ」というよりは「脳」なのだろうな、本当のところは。
以下、私の場合のお話。
走ったり、歩いたりしている時は、特に何か考えているわけではない。ただただ走ったり、もくもくと歩いたりしているだけ。
にも関わらず、走ったり・歩いたりという行為を重ねていくうちに、不思議なことに悩みや悲しみ、苦しみが、波打ち際の砂の城のように、静かにゆっくりと変化したり崩れ去っていくのを、漠然とした感覚で経験する。
なので、言葉にできない、もしくは、言葉にする機会が得られない時、私は走ることにしている。これ、たぶん、私なりのセルフケアなのだと思う。
走ることで、意識していない、そう「無意識」の領域の奥の奥の方で、癒しなのか何なのかわからないが、静かにゆっくりと動いていくものがあるようだ。
これを、何とよんだらいいのだろうか。
暴力被害女性の回復に、何かしら身体を使ったワークを取り入れたいと思うのは、こういうとても個人的な経験があるから。でも、それが一体どのような形なのかが、まだわからない。
その女性の回復の段階によっては、ヨガなどの瞑想タイプのものはかえってマイナスになることもあるように思うし。。。。
私は、たまたま走ったり・歩いたり(自然の中であって、ジム内ではない)することが、意識の領域を越えたところにいいあんばいに作用することがわかっているのだが、あくまでもごくごく個人的な経験でしかない。
昨日、走っていたら、蛇に会った。
びっくりしたけれど、たぶん蛇の方がえらく驚いたに違いない。
無駄のない身のこなしで、あっという間に姿を消した。
私は、びっくりして一旦元来た道を引き返したけれども、せっかく蛇が道を譲ってくれたのだからと再びその道まで戻り、再び走り出した。
私の住む団地は、仙台市内とは思えないような深い森や大きな沼がいくつかある。
そこには、蛇はもちろんのこと、小動物や昆虫が数え切れない種類生息している。
蛇に会った後、足元に注意しながら走っていくと、キリギリス、カマキリ、毛虫、ミミズ、コガネムシ、カミキリムシ、カエル、蛾・・・・etc。たくさんの生き物に出会った。
気がつけば、その一匹一匹に声をかけていた。
それから、行き交う見ず知らずの人たちとも、自然に挨拶をしている自分がいた。
知らないうちに、こころの澱が浄化されていったのだろうか。
からだを動かし、声を出すこと(しかも相手があって)は、こころの安定に大きく貢献してくれる。
帰り足、塩沼亮潤さんの千日回峰行の話を思い出した。
塩沼さんは、戦後3人目の千日回峰行を達成したという仏教界の偉業の方。
その塩沼さんが、行の最中、出会うミミズを一匹一匹助けてやったという話を思い出した。
団地の森の深さや出会った生き物たちが、記憶を引き出したのだろう。
どんな時にも、自分でも思いがけない時に何かしらプレゼントをしてくれる「こころ」や「脳」の不思議やたくましさには、いつもおもしろ味を感じてしまう。
さらに、塩沼さんのこんな言葉も思い出した。
「『今』がよければ、『昔』もすべてよくなる。『今』が悪ければ、『昔』もすべて悪くなってしまう」
そして、その言葉の後には「『今』を一番しあわせに思うこと」という言葉が続く。
表面的には、とてもじゃないけれども手放しで受け入れられる言葉ではない。
もし、今、暴力被害や犯罪被害に遭っていたら、そうは思えないだろうとついつい考えてしまうからだ。
でも、そこから何らかの形ででも生き延びることができたら、この言葉は回復の大きな支えになるだろう。
暴力を肯定するのではなく、劣悪な状況下で生き延びた自分を認めることが、新しい道を切りひらく大きな力になる。
『今』生き延びてここにいることをしあわせに思うこと(感じること)が、過去の自分を否定せずにすむことに繋がるとすれば、どんな最低・最悪な経験を持った人でも、回復の道がきっとあるのではないだろうか。
人は多かれ少なかれ誰しもが人生をサバイヴしていると思う。
そういう意味で、人生自体が「行」とも言えるのかもしれない。
ブッティストではないので、勘違いがあるかもしれないけれども。。。。
だからこそ、塩沼さんの言葉は、私たちの誰しもが持つこころの奥にある自分でも認知できていないような領域に、響くのかもしれない。
さて、今日は日曜日。
ゆっくりと朝ご飯を食べよう♪
by 1193ru
| 2007-08-05 08:15
| DV