アサーティブな言動を選ばない弊害
2007年 02月 19日
アサーティブな言動を選ばなかったばかりに、私は昨晩から今朝(そして今も)にかけて、とても辛い思いをしている。
昨晩は、母が手料理を作ってくれた。
母にとってはいつまでたっても娘なのだろうな。
既に30歳代後半になっているにも関わらず、成長期の中学生にでも食べさせるかのような品数とボリューム。
そして母は、箸休めをする暇も与えずに「食べろ、食べろ」の一点張り。
でも生憎、私は3時過ぎにお茶をしたこともあって、そんなに食べることはできない状態だった。本当は・・・。
「夕方にお茶をしたばかりなので、残念だけどこんなには食べられないの」
と何度言いたかったことか。
でも、母の気持ちと気性を考えてしまった。
それに、家族団らんの雰囲気のことも考えてしまった。
無理に無理を重ね、食べて、食べて、食べて、食べて、食べ尽くした。
それでも完食はできずにダウン。
私が無理に無理を重ねたなんて、母も父も知らない。
自分の状況や気持ちを伝えなかったのだから、両親は知らなくて当たり前だ。
母がひとこと言った。
「あら、こんなに残して。お口に合わなかったのかしら?」
そこには、小さな棘があった。
「こんなに頑張って手間暇をかけて作ったのに残すなんて」という気持ちが込められていた。
私はまんまとその棘に引っかかってしまった。
「こんなに無理して食べたのに、そんな言い方ってあるのかなぁ〜」と。
言葉には出さなかったが、そう思ってしまった。
胃が張り裂けんばかりの状態まで頑張ったせいで、そう簡単に動けなかった。
食事の片付けもままならず、しばらくリビングでゴロゴロしていた。
そんな私を見て母はまたしても小さな棘を発した。
「食べてすぐにゴロゴロするなんて、いいご身分ね」
黙って立ち去ったけど、心身ともに辛かった。
はぁ〜・・・・。
張り裂けんばかりの胃を抱えて寝て、今朝を迎えたけれども、まだまだ胃は張りっぱなし。
昨晩のことを考えると、ホント、後味が悪いのです。
母がネッチー(嫌みやけなしという一見攻撃性を隠して相手にダメージを与えるコミュニケーションパターン)をやったのは、彼女の選択だからとやかく言わない。
でも、発端で私がアサーティブに気持ちと状況を伝えていれば、ここまで胃は痛まなかったし、後味の悪い思いもしなかっただろうにと思うのです。
アサーティブではない言動を選んだ責任は、こんなにも心身に弊害があるなんて・・・。
胃炎を起こしつつ、あぁ、後悔。
自己表現で重要なことは、言いたいことが伝わるかどうかではなくて、自分の気持ちが適切に言えるかどうかということ。
相手の受け取る行為は、相手のものであり、受け取るかどうかは相手が自由に決めることで、私は相手の自由を支配することは当たり前にできないのだから、「伝える」ということにまずは精一杯尽くすことが大切なんだと思う。
昨晩、私はまずそれをしなかった。
「アサーティブな言動を選ばない自由がある」とは、アサーション権のひとつだけれども、この権利の行使には注意しないとならないなと常々思う。
権利というのは責任と表裏一体で、その権利を選んだら、当たり前に責任が出てくるのだ。
私は、昨晩「アサーティブな言動を選ばない自由」を選んだのだけれども、まず選ぶ段階で周囲に流されていた自分がいる。
「アサーティブな言動を選ばない自由」を選ぶのなら、流されずにしっかりと選ぶべきだったのだ。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、私は、アサーティブという権利を放棄したばかりではなく、「私を理解する」というきっかけを母から奪っちゃったのだと思う。
自分がやりたいことを言うことは、人権として許される(もちろんベーシックなお約束の中で)。相手は、私の申し出に対して、同意する権利もあるし、さらに別の権利もあるし、受け取らないという権利もあり、私はそんな相手の選択を受けて、また次を考え言葉にすればいい。
私たちの日常は、小さな葛藤やもめごと、意見の違いは当たり前で、意見が一致することの方が本当は当たり前に少ないのだ。だからこそ、私たちはお互いにいいたいことを言う権利を大切にし、お互いを理解しようと歩み寄る気持ちを持ち続けることが必要なのだと思う。
それが、人間関係というか、「対話」というものなのだろうなと思う。
相変わらず胃は張り続け体中の血液がお腹に集まっている感があるけれど、多少は頭にも血がいっているようだ。
こんなところまで、考えることができた。
それでは、今週一週間も、アサーティブについて楽しみながらも苦悩してみたいと思います。
昨晩は、母が手料理を作ってくれた。
母にとってはいつまでたっても娘なのだろうな。
既に30歳代後半になっているにも関わらず、成長期の中学生にでも食べさせるかのような品数とボリューム。
そして母は、箸休めをする暇も与えずに「食べろ、食べろ」の一点張り。
でも生憎、私は3時過ぎにお茶をしたこともあって、そんなに食べることはできない状態だった。本当は・・・。
「夕方にお茶をしたばかりなので、残念だけどこんなには食べられないの」
と何度言いたかったことか。
でも、母の気持ちと気性を考えてしまった。
それに、家族団らんの雰囲気のことも考えてしまった。
無理に無理を重ね、食べて、食べて、食べて、食べて、食べ尽くした。
それでも完食はできずにダウン。
私が無理に無理を重ねたなんて、母も父も知らない。
自分の状況や気持ちを伝えなかったのだから、両親は知らなくて当たり前だ。
母がひとこと言った。
「あら、こんなに残して。お口に合わなかったのかしら?」
そこには、小さな棘があった。
「こんなに頑張って手間暇をかけて作ったのに残すなんて」という気持ちが込められていた。
私はまんまとその棘に引っかかってしまった。
「こんなに無理して食べたのに、そんな言い方ってあるのかなぁ〜」と。
言葉には出さなかったが、そう思ってしまった。
胃が張り裂けんばかりの状態まで頑張ったせいで、そう簡単に動けなかった。
食事の片付けもままならず、しばらくリビングでゴロゴロしていた。
そんな私を見て母はまたしても小さな棘を発した。
「食べてすぐにゴロゴロするなんて、いいご身分ね」
黙って立ち去ったけど、心身ともに辛かった。
はぁ〜・・・・。
張り裂けんばかりの胃を抱えて寝て、今朝を迎えたけれども、まだまだ胃は張りっぱなし。
昨晩のことを考えると、ホント、後味が悪いのです。
母がネッチー(嫌みやけなしという一見攻撃性を隠して相手にダメージを与えるコミュニケーションパターン)をやったのは、彼女の選択だからとやかく言わない。
でも、発端で私がアサーティブに気持ちと状況を伝えていれば、ここまで胃は痛まなかったし、後味の悪い思いもしなかっただろうにと思うのです。
アサーティブではない言動を選んだ責任は、こんなにも心身に弊害があるなんて・・・。
胃炎を起こしつつ、あぁ、後悔。
自己表現で重要なことは、言いたいことが伝わるかどうかではなくて、自分の気持ちが適切に言えるかどうかということ。
相手の受け取る行為は、相手のものであり、受け取るかどうかは相手が自由に決めることで、私は相手の自由を支配することは当たり前にできないのだから、「伝える」ということにまずは精一杯尽くすことが大切なんだと思う。
昨晩、私はまずそれをしなかった。
「アサーティブな言動を選ばない自由がある」とは、アサーション権のひとつだけれども、この権利の行使には注意しないとならないなと常々思う。
権利というのは責任と表裏一体で、その権利を選んだら、当たり前に責任が出てくるのだ。
私は、昨晩「アサーティブな言動を選ばない自由」を選んだのだけれども、まず選ぶ段階で周囲に流されていた自分がいる。
「アサーティブな言動を選ばない自由」を選ぶのなら、流されずにしっかりと選ぶべきだったのだ。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、私は、アサーティブという権利を放棄したばかりではなく、「私を理解する」というきっかけを母から奪っちゃったのだと思う。
自分がやりたいことを言うことは、人権として許される(もちろんベーシックなお約束の中で)。相手は、私の申し出に対して、同意する権利もあるし、さらに別の権利もあるし、受け取らないという権利もあり、私はそんな相手の選択を受けて、また次を考え言葉にすればいい。
私たちの日常は、小さな葛藤やもめごと、意見の違いは当たり前で、意見が一致することの方が本当は当たり前に少ないのだ。だからこそ、私たちはお互いにいいたいことを言う権利を大切にし、お互いを理解しようと歩み寄る気持ちを持ち続けることが必要なのだと思う。
それが、人間関係というか、「対話」というものなのだろうなと思う。
相変わらず胃は張り続け体中の血液がお腹に集まっている感があるけれど、多少は頭にも血がいっているようだ。
こんなところまで、考えることができた。
それでは、今週一週間も、アサーティブについて楽しみながらも苦悩してみたいと思います。
by 1193ru
| 2007-02-19 08:45
| アサーティブ